正義の味方レッドレンジャー登場



広告代理店業の世界には、ほぼ全員がいつかは必ず何かの賞を取れるよう、数百(そう数百もだ)の賞が用意されている。個人のキャリアだけでなく、代理店全体の運命も、これらを受賞し続けて大口アカウントを確保し続けることにかかっているので、これらの受賞競争が厳しくないわけではない。実際のところ、次第に必ずしもクライアントのメリットではなく、受賞目当てでキャンペーンが制作されるようにまでなっている。これを監視する良い方法の1つが、AdsOfTheWorld.comにある。これは Graphics.com Network のサイトで、訪問者はクライアントより代理店を優先するキャンペーンに対するコメントを書き込むことができる。


Dunkin’ Donut は食べないし WalMart にも行かない
事実上あらゆるタイプの消費者と、(男女含めた)人類のあらゆる購買傾向に関する研究や調査はいくつもある。マーケティング担当者、広告主、そして目先が利く企業各社は、顧客を満足させ、説得するためこれらの調査結果を頼りにしている。つまり、消費者の一部である同性愛者の市場も調査し、その好みを見つけ出すことは当然だと思うのだ(これまで June-Pride-Month を扱ってきたので、その主張を続けようと思った次第だ)。続きはこちら







サイケデリックロック系アーティストの死


先日 Times 紙を読んでいて、ある死亡記事に一瞬絶句した。サイケデリックロックのポスターを描く卓越したアーティストの1人、Alton Kelley がカリフォルニア州ペタルーマの自宅で亡くなったという。67歳だった。Kelley は、’60年代半ばにカリフォルニア州サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区でロックバンドやコンサートのプロモーション用ポスターのデザインと手作業での製作を行っていた1人だ。どれだけ刺激的な体験だったことだろう(ちょっとジョークも入れてみた    



アプリケーションフレームの世界へようこそ



もしあなたが「Photoshop」に夢中なら(心の底から本当に夢中なら)、過去のバージョンから未来のバージョンまで、Photoshop に関して何でもかんでも知りたいと思うだろう。そして、未来のバージョンについて詳しく調査したいときに最も注目すべき人物が、Photoshop のシニア製品マネジャーである John Nack 氏だ。

 



[この論説/アート・カルチャー研究は、Gay Pride Month (6月)を認め、祝うものである]

以前から、平等とそれを構成するものについては、各方面で多くの議論が続いている。われわれの多くが耳にしたことがあるように、物事は変化すればするほど、その本質は同じであり続けるのだ。アメリカ合衆国憲法にうたわれている平等、生きる権利、そして全員に与えられた基本的恩恵を平等に享受することは難しいことではない。notequal.jpg 

しかし、ここ最近は平等な自由、結婚の概念、そしてその厳密な意味を巡って抗議の嵐が吹き荒れている。米国市民は全員が愛する人と結婚する固有の権利を有しているのではないのか? この権利を持つには特定の少数によって定められ、われわれ全員が従わなくてはならないルールあるいは規範がなくてはならないのか? また、もしその権利がないのなら、われわれはアメリカ人あるいは人間以下ということか?  悲しいことに、筆者は次第にそうであることを認識しつつある。


もちろん、筆者が述べているのは全員の結婚の自由についてだ。一部にとっては、さほど大きな問題だとは思えず、問題にさえならないのかもしれない。しかし言わせていただきたい。異なる種類の人々に溶け込み、一緒に食卓につけるよう一生を捧げて努力してきた人間にとっては大問題なのだ。

[ご存じでない方のために加えると、カリフォルニア州最高裁判所は先ごろ、同性との結婚を否定する州法は憲法違反だとの判決を下した。同最高裁判所は判決のなかで、同棲関係や同性間結婚を認めても、結婚の権利を完全に認めないものは平等ではなく差別的だと考えられるとした。「Protection of Marriage」では、憲法の表現を文字通り変えて「結婚とは1人の男性と1人の女性の結合と定義する」という内容を反映させることを問う11月の表決に向け、可決に十分な署名を既に集めている。もしこれが可決されれば、これが州憲法に組み入れられ、変えることは極めて困難となる。]

この論説/アート・カルチャー研究は、Gay Pride Month (6月)を認め、祝うものである] 以前から、平等とそれを構成するものについては、各方面で多くの議論が続いている。われわれの多くが耳にしたことがあるように、物事は変化すればするほど、その本質は同じであり続けるのだ。アメリカ合衆国憲法にうたわれている平等、生きる権利、そして全員に与えられた基本的恩恵を平等に享受することは難しいことではない。 

しかし、ここ最近は平等な自由、結婚の概念、そしてその厳密な意味を巡って抗議の嵐が吹き荒れている。米国市民は全員が愛する人と結婚する固有の権利を有しているのではないのか? この権利を持つには特定の少数によって定められ、われわれ全員が従わなくてはならないルールあるいは規範がなくてはならないのか? また、もしその権利がないのなら、われわれはアメリカ人あるいは人間以下ということか?  悲しいことに、筆者は次第にそうであることを認識しつつある。 もちろん、筆者が述べているのは全員の結婚の自由についてだ。一部にとっては、さほど大きな問題だとは思えず、問題にさえならないのかもしれない。

しかし言わせていただきたい。異なる種類の人々に溶け込み、一緒に食卓につけるよう一生を捧げて努力してきた人間にとっては大問題なのだ。 [ご存じでない方のために加えると、カリフォルニア州最高裁判所は先ごろ、同性との結婚を否定する州法は憲法違反だとの判決を下した。同最高裁判所は判決のなかで、同棲関係や同性間結婚を認めても、結婚の権利を完全に認めないものは平等ではなく差別的だと考えられるとした。「Protection of Marriage」では、憲法の表現を文字通り変えて「結婚とは1人の男性と1人の女性の結合と定義する」という内容を反映させることを問う11月の表決に向け、可決に十分な署名を既に集めている。もしこれが可決されれば、これが州憲法に組み入れられ、変えることは極めて困難となる。]