ビジネスとデザインの諸相――家電業界の場合――(2)(前回はこちら)
3.受け手側の問題 脳についての好著『海馬/脳は疲れない』(池谷裕二・糸井重里著、2002年)において、脳神経細胞の結合条件は受け手側にその多くを負っているという内容が語られている。 これを受けて、コミュニケーションは受け手次第、というふうに糸井氏がまとめているが、得てして何事も創り手側の問題に還元したがる風潮がある中、受け手の側にこそ問題があるのではないか、という糸井氏のような視点は時に重要である。 では、創り手に対する受け手とは一体誰だろう。企業の存続は顧客という資源に依存する。ではこの顧客とは誰か?通常、メーカーにとって、一義的な顧客とは一般消費者(エンドユーザー)ではなく、流通、つまり小売店を意味している。 ここで、家電の流通構造を見てみよう。国内家電小売市場は6〜7兆円と言われているが、その7割をいわゆる家電量販店が占めている。つまり、メーカーにとって、最もその存在感の大きい大口顧客は家電量販店という構造になっている(半沢努、2003年)。 この構造が何を意味するのかを考える時、米国の経営学者クリス クリステンセン氏が提唱している「バリュー ネットワーク」という概念が参考になる。バリュー ネットワークとは、企業が「顧客のニーズを認識し、対応し、問題を解決し、資源を調達し、競争相手に対抗し、利潤を追求する」に当たって組み込まれている価値創造のための枠組みのことを指している。 そして、「企業は、あるバリュー ネットワークの中で経験を積むと、そのネットワークに際立って見られる需要に合わせて能力、組織構造、企業文化を形成することが多い」と指摘されている(クレイトン クリステンセン、2001年)。 さて、家電メーカーが組み込まれているバリュー ネットワークの中で、「際立って見られる需要」は、家電量販店の大口需要である。このため、家電メーカーは、家電量販店の要求するものに合わせて「能力、組織構造、企業文化」を形成し、商品の製造を行っていくのである。 では、家電量販店の要求とは何か。それは「価格」である。家電量販店はメーカー系列に縛られない「豊富な品揃え」と、大量仕入れによるボリュームディスカウントを原資とした「低価格販売」を武器に、90年代後半までに、メーカー系列の家電店や中小家電店からシェアを奪う形で急成長を遂げてきた。 しかし、現在は、量販店の店舗数も飽和状態に達し、量販店間での熾烈な競争が繰り広げられている。どこの量販店も大抵のナショナル ブランドを扱い、量販店間での商品の差別化はできない状態にあることから、量販店の差別化ポイントは、「より低い価格」と「より良いサービス」となっている。 そして、これにより益率が悪化しないよう、その購買力を生かして、メーカー側(通常はメーカーの子会社である販売会社)に再三の掛率交渉を行うのである。 聞くところによれば、この掛率交渉は一つのモデルにつき、3か月に一回行われるとのことである。このため、一年も経つと、下代(卸値)が製造原価を割ってしまう、という笑えない構造になっているのである。 これを避けるために、メーカー側は一年に一回フルモデルチェンジを行い、価格を再度設定し直すのである。モデルチェンジしたことをアピールするには、機能の高度化や多様化が求められる。これが、毎年毎年の頻繁なモデルチェンジと必要以上に思える多機能化・高機能化を生み出している要因である。 しかし、このような過剰なまでにスピーディな商品開発体制は、「多様化された画一性」(ジョージ ストーク・Jr、A.M.ウェバー、1993年)という逆説を生み出してしまう。 スピードを重視するあまり、メーカーは消費者の嗜好を十分に検討する前に商品を市場に出さざるを得ない。このため、どこかのメーカーがヒット商品を売り出せば、他のメーカーもそれを追随する、という形で「売れるであろう」商品が大量に市場に投入されることになる。 短いペースで多様な製品が市場に溢れることにより、個々の製品は差別化することができなくなり、「日用品」となってしまうのである。 このような構造の中で、メーカー側は、疲弊し、消耗しきっている。これが家電王国と言われる日本の家電メーカーの実態なのである。これでは、本当に消費者が求めている機能・使い勝手や、個性的で良質なデザインを生み出すための時間も余裕もない、というのが実情であろう。 創り手の問題というよりも、創り手が組み込まれた構造の問題であり、その構造は受け手の性質に因っているのである。 このような構造を知ると、日本の家電業界はどうなってしまうのだろう、と暗澹たる気持ちになってくる。上述のジョージ ストーク Jr.とA・M ウェバーは、10年以上前に日本企業がこのような「無意味で自滅的と思われる競争」を続けていく限り、待ち受けているのは「消耗死」である、と予言しているが、まさにそのような「仁義亡き戦い」の様相を呈している。 どのような企業も生き残りをかけて必死になるのは当たり前であるが、この状態ではどこにものづくりの喜びがあるのであろう、と思ってしまう。 製造業であれ、農林漁業であれ、ものづくりが全ての価値の源泉である。ものづくりの喜びを味わえないような社会に喜びは生まれないと筆者は思っている。家電業界はまさにそのような世界になってしまっているのではないか、と危惧している。 しかし、この構造を生み出しているのは、結局のところ、少しでも安い商品を求めて家電量販店を訪れる私達消費者自身であるということも肝に命ずるべきである。 とどのつまり、受け手の問題とは、私達一人一人の消費者の問題であり、より大きくは、消費文化の問題であろう。 まさに、「デザインとは生活から生まれてくる感受性」(原研哉、2003年)であり、生活者自身の感受性が問われているのである。 製造業の空洞化が進行し、日本の製造業が生き残る道は、高付加価値化であると言われる。経済産業省と財団法人日本産業デザイン振興会が「デザイン&ビジネスフォーラム」を2003年に発足するなど、ビジネスにおけるデザインの位置付けに対する意識は高まっているようである。 しかし、受け手の構造が変わらない限り、創り手はなかなか変われないのである。 (以下続く) (c) 日本総合研究所
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